鳩森八幡神社の富士塚と富士講について

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昔々、今から約1万年前頃、噴火で四つの山が積み重なって富士山の形ができました。それからも噴火を繰り返したので人々は下界よりただひたすらに鎮まるよう浅間大神を祀り拝んでおりました(そのころには山宮浅間神社をはじめいくつかの神社があったようです)。

飛鳥時代から平安時代にかけて山岳修行者である役小角(えんのおづぬ、修験道の始祖)が山に登るようになってから富士山に登る人がだんだん増えていったそうです(それで”ふもと”からの信仰は衰えていたのです)。富士上人と呼ばれた”末代”という僧が何回も富士山に登り山岳信仰の修行の場となっていきました。室町時代に入ると富士山に登る人がますます増え山岳信仰が盛んになっていきました。

江戸時代初期ごろ長谷川角行という山岳修行者が”末代”の開いた山岳信仰を庶民のお参りとして”富士講”を全国に広めていった。しかし、江戸中期ごろ、その”角行”系統が2つの派に分かれてしまい、その1派の食行身禄(伊藤伊兵衛という人)が江戸末期まで広く各地に富士講を広めたのです。

千駄ヶ谷の”富士講”の講社の名は烏帽子岩といいます。

富士山に登りに行くのには大変な日数と労力(お金)がかかります。それが叶わない人々のために人工のミニ富士山(富士塚)を作って、富士塚に登ると本当の富士山に登ったのと同じご利益を得られると栄えたのです。千駄ヶ谷の富士塚は都内で現在1~2の立派な築山です。山頂は富士山の溶岩で作られ、七合目には身禄さんが祀られ立派な原風景です。

身禄さんは・・・富士山の烏帽子岩に63才で断食入定して即身仏となりました
身禄さんの教えは・・・人は行いを正しく、家業に励み、士農工商の身分の差別なし、男女平等を説いた

千駄ヶ谷の富士塚ができた時期には諸説あり。結論は出ていません。いずれにしても約250~280年前だと思われる。

(一説)富士塚のところにある石灯籠には1734年、狛犬には1735年、手水桶には1731年とある(享保年間)

(一説)富士塚の五合目にある献碑(大天狗、小天狗)には寛政元年六月吉日と刻まれている

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